高校生の時に文学にかぶれ、「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし/寺山修司」の短歌と出会って、中学校の国語教師を志しました。
単純なおかつ不純な動機だったけど、教員不人気のこのご時世、ありがたいことに地元の教員採用試験に合格し、中学校の国語教師になるという夢を叶えることができました。
初任校は市内でもまあまあ荒れていることで有名な中学校でしたが、こちらが本気で向き合えば本気で向き合い直してくるような、今時珍しい中学生たちで、私はそれはそれは不出来な初任者でしたが幸せな一年間を過ごしました。
初任校にいられるのは長くて3年。私の県ではそう言われています。
教育公務員である以上、異動は宿命。私だってそれぐらい分かっていました。
それでも、たった一年で、しかも小学校への異動を命じられるとは思ってもみなかった。
人生最大の挫折でした。
勤務する校種が変わって、この1年間。
色んなことがありました。
中学校からの異動が余程特殊に見えたのか、左遷ではないかと保護者の間で噂された4月。
超過勤務について、教頭から口頭注意を受けたこともあった。
小学生への向き合い方が分からず、クラスの中で子どもが互いを傷付け合い、とにかく苦しかった1学期の終わり。
思えばこの辺りから鬱症状が出始めていた。
2学期に入って、クラスはなんとか持ち直したが、毎日残業しても終わらない仕事に焦燥感を覚えた。
小学校の仕事なんか一つも分かりはしないのに、2年目だからと一人立ちを求められ、放課後、職員室に戻るのが怖くて自分の教室で立ち竦んだ。
日直で校舎の三階を巡視している時、窓から飛び降りようと思った。
退職願を書いた。今でも職場のパソコンのデスクトップに保存してある。
心療内科に行って、鬱の診断が出た。
診断書を校長に渡すとき、指先が震えた。
もう、教師は続けられないと思った。
それなのに。
算数が嫌いなあの子が、教科書を持って休み時間に質問に来てくれた。
私を小馬鹿にしていたあの子が、「先生、俺、やるよ」って自分から手伝いを申し出てくれた。
しっかり者のあの子が、「もう!しょうがないなあ!」って笑って学級委員を引き受けてくれた。
元気だけが取り柄のやんちゃなあの子が、昼休み、ドッジボールに誘ってくれた。
運動が苦手なあの子が、バスケットボールの授業、初めてシュートを決めて嬉しそうに笑った。
まだ、教師がやりたいと思った。
異動してきて1年間、ずっと値踏みされてきた。評価の視線に晒されてきた。
実力至上主義の世界で、弱者として職員室の隅っこで息を潜めてきた。
死にたさと生きたさの二律背反には、今だって苦しんでいる。
だけど、今はまだ、教師として生きていきたい。